続いて、『エンジェル ウォーズ』(Sucker Punch)です。
『300 <スリーハンドレッド>』のザック・スナイダー監督が放った、重層的な空想世界の中で女子5人が力を合わせて敵と闘うというファンタジーSF映画です。
ロボトミー
主人公のベイビードール(エミリー・ブラウニング)は、遺産狙いの義父から虐待を受け、妹を殺されたばかりでなく、妹殺しの汚名を着せられて精神病院に強制収監されてしまいます。そこでは、おぞましいロボトミー手術が待っていました。
ロボトミー手術というのは前頭葉の一部を切除する手術。「凶暴」な精神病患者が「劇的に大人しくなる」という触れ込みで、20世紀の前半に流行した手法で、発明者のエガス・モニス(ポルトガルの医師・政治家)は1949年にノーベル生理学・医学賞を受賞しています(ちなみに共同受賞者の名前は偶然にもルドルフ・ヘス)。
しかし、ロボトミー手術を施されると人格が破壊され廃人になってしまうことが多いことから、人間の尊厳を損なう手法として、否定的な評価が今日では圧倒的なようです。映画『カッコーの巣の上で』 (One Flew Over The Cuckoo’s Nest)のラストでジャック・ニコルソンが施された手術がこれですね。
空想の世界
精神病院において意思に反してロボトミー手術を施されようとする現実。それは、誰にとってであれ、耐え難いものがあります。
その受け入れがたい現実から逃避して、自由を求める主人公の精神は、病院を娼館に見立てる「空想世界」に入り込んでいきます。
この2次的な世界では、精神病院の「女性医師」は娼館の「女主人」に、陰険な「看護師」は横暴な「娼館オーナー」に、主人公自身は天才的なダンスの才能がある「新人娼婦」に置き換えられます。
ベイビードールは空想世界における娼館で、市長や金持ちを相手に、激しく官能的なダンスを踊って男を虜にします。このダンスが彼女の行為のメタファーであることは大人なら分かりますね。
メタファーというのは、隠喩(いんゆ)と言って、比喩であることを直接に明示しない表現のことです。現実をありのままに認識しているはずなのに、それが「何か別の意味を持っている」と指摘されると、その現実が違って見えてくることがあると思います。それと同様に、メタファーという表現は現実の別の姿を見せてくれる「衝撃力」をもつことがあります。脳みそを不意打ちするような衝撃です。この映画の原題が、Sucker Punch(「不意打ち」という意味)となっているのは、もしかしたら、それゆえかもしれません。
映画の中でメタファーが効果的に使われると、映画の中で構築された世界がぐんと深みを増して、多元的に理解されるようになります。この映画はその典型です。
妄想の世界
『エンジェル ウォーズ』では、ベイビードールがダンスを始めると、踊りながら彼女の意識は更なる妄想の世界にトリップしていきます。
これは何故でしょうか。
まず考えられるのは、精神のトリップはダンスの「高揚感の比喩」ではないかということです。ダンス自体がもたらす高揚感です。しかし、単にそう考えると、トリップした妄想世界での「闘い」の意味がよく分からなくなります。
なぜベイビードールは妄想世界で闘わなくてはならないのでしょうか。
ひょっとしたら、このベイビードールのダンスは、2次的な空想世界における「行為」のメタファーであると同時に、現実の世界(病院)における患者への「性的虐待」のメタファーかもしれません。もし、そうだとしたら、その現実は、とうてい受け入れがたい酷いものです。それゆえ、その過酷な現実に立ち向かうために、ダンスをしながら主人公の意識は更なる「妄想世界」にトリップするのではないかとも思えます。そう考える場合、ダンスが始まるや否や妄想の世界が自ずと立ち現れるのは、ベイビードールが現実に立ち向かう姿にかかわる重層的なメタファーを表現しているとも解釈できます。
いずれにせよ、『エンジェル ウォーズ』の核心的な表現は、この第3次レベルの「妄想世界」にあります。
この世界で、彼女は自由で超人的なパワーを得て敵と戦います。舞台となるのは、日本風の寺院や第一次世界大戦の戦場、中世の古城など。数々のサブカルチャー的な表現が引用され尽くしたこの妄想世界で、ベイビードールは4人の仲間と一緒に敵と闘っていきます。5人を導く不思議な男性(スコット・グレン)が登場しますが、これは今は亡き父親のメタファーでしょうか。第3次世界における圧倒的に濃厚なイマジネーションの描写こそが、この映画の見せ場に他なりません。
ベイビードールが仲間とともに戦う敵は、「妄想世界」における直接の敵だけではなく、娼館という「空想世界」における理不尽、さらに精神病院という「現実世界」における絶望的な不自由さを意味しているように思われます。そして、『エンジェル ウォーズ』を観る者は、この3っの世界がリンクして同時進行していくというストーリーの運びに、頭を揺さぶられます。といっても、精神分析もどきの深読みが要求される訳ではありません。娼館=病院から脱出するために必要な「アイテム」を1個1個ゲットしていくという、RPGゲームのような設定の下で奮闘するベイビードール達の姿は、爽快なものがあります。
マトリックスとインセプション
その点で、『マトリックス』の仮想現実や『インセプション』の深層世界(という既存の二大傑作の設定)とはまったく異なるコンセプトの映画であることがお分かり頂けると思います。
ウォシャウスキー姉弟の『マトリックス』であれば、プラグを頭の後ろの部分に刺すことによって、現実の暗黒世界から仮想の理想郷に移動出来るという設定がされています。
しかし、仮想世界に入っている間、現実の世界での人々は単に「寝ている」状態です。そもそも電話回線の接続によって仮想空間に入るというコンセプト自体、「そんなこと、ありえないだろ」という一言で終わりと言えば終わりです。
これに対して、クリストファー・ノーランの『インセプション』は「夢」のお話です。
登場人物は、現実には眠りこけながら、「夢の中で更に夢を見る」という多重的な夢世界を行ったり来たりします。確かに、夢の中でそういう体験をすることもないとは言えないのですが、そうする必然性があるとか言われると厳しいものがあります。
たまたま「胡蝶の夢」を見て、ボーッとしながらも不思議な夢だったなと回想することはあるでしょう。しかし、何重もの深層世界に侵入していくというコンセプトは、面白いけど、無理やりな感じがどうしても残ります。映画のストーリーとしては、「重要人物の深層意識に影響を与えて、現実の選択を都合よく変える闇の請負ビジネスがある」という説明でクリアしていますが、この設定がそれほどリアルだとは言い難いところがあります。
この点、『エンジェル ウォーズ』は、過酷すぎる状況に身を置いた主人公が、目の前に突き付けられた現実を彼女なりに咀嚼し耐える為に生み出した空想と妄想であるという、ある種の必然性が感じられます。荒唐無稽とも思える空想世界の描写を観ながらも、同時に、何かリアルな、重いものを突き付けられる感じがします。
「正気を保つために狂気を受け入れる」というべきか、「メタファーによって精神の自由を獲得する」というか表現が難しいところですが、ベイビードールの挑戦は、ラデュ・ミヘイレアニュの名作映画『オーケストラ!』(LE CONCERT)で、シベリアの強制収容所に送られたバイオリニストが空想でバイオリンを弾く、悲しくも気高い姿を想起させます。
『エンジェル ウォーズ』は、現実をありのまま受け入れるのではなく、メタファーという表現を介して受容するという経験を丁寧に描いている点で、強く印象に残る映画です。ダンスと音楽を効果的に用いることでメタファーとしての重層的な世界を構築し、同時に、観る者に劇中世界を多元的に理解させることに成功している、希有の作品と言えるのではないでしょうか(ちょっと褒め過ぎ?)。
フォークナー
この映画を観ながら、ふとウィリアム・フォークナーのスピーチを思い出しました。フォークナーがノーベル文学賞を受賞した時のスピーチです。
“I believe that man will not merely endure: he will prevail. He is immortal, not because he alone among creatures has an inexhaustible voice, but because he has a soul, a spirit capable of compassion and sacrifice and endurance.”
試しに訳してみると、
「私は、人が単に耐えるだけでなく、打ち勝つのだと信じています。人が不朽の存在であるのは、生き物の中で人だけが尽きることのない声を持っているからではなく、魂、つまり他者を思いやり、自己を犠牲にして、耐えることができる心を持っているからです」
というところでしょうか。
人間の精神を称揚するフォークナーが受賞したノーベル文学賞は、1949年のもの(実際の受賞は翌年です)。奇しくも、ロボトミー手術の発明者エガス・モニスが生理学・医学賞を受賞したのも同じ1949年でした。
ベイビードールがやろうとしたこと。それは、最後まで諦めず(endurance)、自己を犠牲にして(sacrifice)仲間を助けよう(compassion)としたことに尽きるのではないかと思います。もし、そうだとしたら、彼女の「ダンス」にこそ、フォークナーのいう「魂」が込められているという気がしてなりません。