映画 『完全なる報復』とコラテラル

次は、ゲイリー・グレイ監督の『完全なる報復』(Law Abiding Citizen)です。

妻子を殺された男が10年がかりで2人の犯人に復讐を遂げるとともに、裁判関係者に報復していくという映画です。

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完全なる報復計画

被疑者2人は逮捕されましたが、ジェラルド・バトラー演ずる父親の懇願も空しく、やり手検事(ジェイミー・フォックス)は司法取引に踏み切り、主犯は子分に罪をなすりつけて死刑を免れます。市民の心情を無視する法制度に絶望したジェラルド・バトラーは、実行犯2人に復讐するだけでなく、茶番としか思えない裁判の関係者全員に報復を行うことを決意します。

準備期間はなんと10年。

主犯が懲役刑を終え出所したところから、財産と頭脳を駆使し綿密に計算された報復劇が始まります。用意周到な復讐は鬼の所業のようです。特に主犯のおっさんに対する復讐という名の虐殺行為の描写は凄まじいの一言(子供は絶対に見ない方がいいです)。

巻き添え(collateral)

妻子を殺されただけでなく、司法制度によって理不尽な扱いを受けたと考える復讐鬼ジェラルド・バトラーは、司法取引に踏み切った検事を含めて、「茶番」に関わった全ての関係者は死の裁きを受けるべきと信じています。これに対して、ジェイミー・フォックス(検事)は、関係者は誠実にその公的職務を果たしただけであり、私的な復讐の対象となるのは「巻き添え」を食らうことに他ならないと考えます。

そう、この映画は単なる報復劇ではなく、「巻き添え」(英語でcollateral)を巡る二人の男の対決を描く映画とも言えます。

巻き添えを食らうとは一般には、傍観者又は第三者であるにもかかわらず、何らかの負担を押し付けられたり、被害を被ったりするという意味です。つまり、当事者でもないのに(正確に言うと、当事者であるがゆえに甘受しなければならない責任がある訳ではないのに)何らかの「とばっちり」を食うというイメージです。

突然乱入してきた暴漢2人に妻子を殺されたジェラルド・バトラーにしてみたら、自分は巻き添えの被害者そのものです。なぜ見ず知らずの人間に家族を殺されなければならないのか。愛する家族を目の前で殺された人間がなりふり構わず「犯人をぶち殺したい」と思うのは、人のリアルな感情として理解でき、実際にそのような復讐劇を描いた映画はたくさんあります。

しかし、この『完全なる報復』は、そのような報復の感情が、当事者としての犯人だけではなく、背景にある法制度に向けられていく点に着目します。ジェラルド・バトラーは、当然に死の裁きを受けると思っていた主犯のおっさんが狡猾な検事の司法取引のせいでまんまと死刑を免れたことに憤死しそうになるくらい怒りを覚えます。そして、彼の憤激は、被害者の心情を踏みにじるかのような現行の司法制度に鋭く向かっていきます。

悪法も法か

「悪しき法制度も遵守すべきか」というこの映画の問いかけは、言うまでもなく「悪法も法か」という古典的な命題を背景としています。それゆえ、この映画の原題が「Law Abiding Citizen」、つまり「法を遵守する市民」というものになっている訳です。

ジェラルド・バトラーは、より良い方向に制度を改革する為に例えば「選挙に出て市長に当選して制度改革を行う」といったような迂遠な方法はとりません。被告人2人を自らの手で殺して復讐を果たすだけでなく、検事から裁判官に至るまで、茶番裁判の関係者を「皆殺し」にするという直接的な方法をとろうとします。

被害者や遺族による直接的な報復(私刑)を禁止し、応報刑の遂行を国や州が独占している近代社会では、いかに可哀想な巻き添え被害者であるジェラルド・バトラーといえども、自ら復讐に乗り出したらアウトです。現行制度の下では、ジェラルド・バトラーは、もはや私憤という域を超えて、共感しがたい猟奇的で独善的な復讐にかられているだけと言わざるを得ません。

それに対して、10年前に事件をたまたま担当した検事ジェイミー・フォックスが復讐の対象になるというのは、「巻き添え」を喰らっているだけのように思えます。

しかし、実はジェイミー・フォックスは事件当時、心から妻子の死を悲しみ犯人を憎んで「せめて1人は確実に死刑台に送りたい」という純粋な気持ちで司法取引に応じた訳ではありませんでした。有罪率という成績を気にする出世に貪欲なやり手検事にとって、司法取引は合理的な事件処理だという側面があったのです。遺族ジェラルド・バトラーにとって、検事ジェイミー・フォックスは不正義の当事者そのものであり、当事者であるがゆえに甘受しなければならない責任があると考えた訳です。

このような「巻き添えと責任」を巡る二人の男のぶつかり合いの描写が、『完全なる報復』を強く印象に残る映画にしています。

コラテラルとコラテラル・ダメージ

ジェイミー・フォックスと言えば、2004年のマイケル・マン監督作品『コラテラル』(Collateral)という映画で、殺し屋トム・クルーズの暗殺を手伝う羽目になった気弱なタクシードライバー役を好演し、オスカーを獲った『Ray/レイ』(Ray)での熱演と併せて、一気に演技派スターの地位を占めるに至った男優です。

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コラテラルという言葉は、「付随した」とか「横の」とかいう意味があります。語源としては、ラテラル(lateral)つまり「横の」という意味合いを持つ言葉です(TPPのような多国間交渉のことをマルチラテラル(multilateral)といい、2国間の交渉をバイラテラル(bilateral)といいますね)。

ちなみに、最近はラテラル・シンキングという用語を良く耳にしますが、これも同じく「横の」という意味合いです。ラテラル・シンキングとは、ロジカル・シンキング(論理的に物事を堀り下げて考えていく垂直的な思考のこと)の限界を、視点をヨコにずらして考えることで乗り越えようとする考え方のことです。例えば、「ミカン3個を5人で平等に分けるにはどうしたらいいか」という問題に対して、「ナイフで5等分に切って分配する」のではなく、「ミカン3個全部を絞ってジュースにして5杯に分ける」というのがラテラル・シンキングです。違った視点からの問題解決のヒントになるとして、ちょっと前に流行しました。

このラテラルを含むのが、コラテラル。本筋ではなく、ひょこっと横に出た、間接的なものをコラテラルという訳です。なお、collateralといえば「担保」という意味もあります。本来の責任を支える、付加的な責任のことですね。

映画『コラテラル』は、タクシー運転手が殺し屋の仕事に巻き込まれるという「巻き添え」を主題としつつ、現実をなかなか受け入れない、子供っぽいところが残る主人公が必死に頑張って女性検事を助ける過程で、少しずつ成長を遂げる姿も描いていきます。

そうそう、コラテラルといえば、アーノルド・シュワルツェネッガーの『コラテラル・ダメージ』(Collateral Damage)という映画もありました。これは、テロの巻き添えで妻子を爆殺された消防士シュワルツェネッガーの怒りの映画です。

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戦争や軍事作戦における「民間人の犠牲」をCollateral Damageといいます。軍事作戦において、民間の被害は「副次的な被害」つまり Collateral Damageと言われます。被害にあった人間が民間人というだけで、Collateralと言われてしまうのは納得がいかない気がしますが、必ずしもそうではありません。

確かに、軍事作戦においては軍の被害が「主」であり民間の被害は「従」であるという考え方があります。しかし、それは「軍事作戦の被害は軍内部に留めるべきであり、外部(民間人)の被害は出来る限りゼロにするべきだ」という思想が背景にあるということでもあります。プロフェッショナルとしての軍人等が用いる場合、Collateral Damageという言葉は重い意味を持っているのです。

いずれにしても、コラテラルという言葉は、当事者性と巻き添え性、被害と責任について、いろいろな問いを投げかける言葉であると言えます。『完全なる報復』と『コラテラル』、そして『コラテラル・ダメージ』。巻き添え3部作といったところでしょうか。

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