今回の粛清劇で、なぜ重臣の一斉拘束という強硬策が取られたのでしょうか。
2015年1月にアブドラ前国王が逝去し、サルマン現国王(King Salman bin Abdulaziz Al Saud)が王位を継承して僅か3ヶ月後、当時国防相だった七男ムハンマド氏(Mohammed bin Salman(通称MbS)。当時、国防相兼経済開発評議会議長)が副皇太子に任命されました。それ以来、彼が国王の後継者であることは規定路線だったと言って良いでしょう。
初代国王アブドゥルアジズの子孫であるファイサル家やアブドラ家といった名門諸家の間の均衡を重視する時代は去り、スデイル家(スデイリー・セブン。初代国王の妻ハッサ・スデイリー妃を母とする7兄弟の家系)、なかでもサルマン家を重用する傾向は明らかになっていました。ムハンマド副皇太子氏の有能さを評価する声は高く、このままいっても国王継承には問題がなかったはずです。
また、ムハンマド副皇太子は就任後、経済政策の実権を握る経済開発評議会議長として、原油産出に依存してきたサウジの国家経営を根底から改革することに着手し、2016年4月には、国営石油会社サウジアラムコのIPO(新規株式上場)等を柱とする包括的な経済改革プラン「Vision2030」を高らかに謳いあげ、2030年までに非石油収入を6倍超に増やすといった改革案を提示しています。
2014年秋以降の原油価格の低迷で、国民の7割を占める公務員からなる中間層の生活は苦しくなる一方であり、失業率も12%に上昇。財政赤字が積み上がる中で、構造改革を実現できる次世代のリーダーとしてムハンマド副皇太子に期待する声は高かったといえるでしょう。また、外交面でも、イランに対して徹底した強硬姿勢を取り、一部で緊張激化を懸念する声は出たものの、サウジ国内でムハンマド副皇太子の強力なリーダーシップを賞賛する声が多かったのも事実です。
しかし、そのムハンマド副皇太子が直面したのが、足元の「抵抗勢力」です。人口3100万人のサウジには1万5000人とも2万人とも言われる王族がいますが、ありとあらゆる利権に特権階級の王族が関与しているのが常識とのこと。
ムハンマド氏の目玉政策であるサウジアラムコのIPOも、上場によって財務情報を含めた情報開示を徹底させることで利権を透明化する狙いがあったと言われていますし、また、娯楽産業の解放や女性の自動車運転の解禁等、ムハンマド氏が開明的な政策を打ち出せば出すほど、守旧派の王族や宗教界からの反発が強まっていました。
つまり、コンセンサスを重視するあまり遅々として改革が進まないことに業を煮やしたムハンマド氏が、国内での膠着状況を打破すべく、皇太子就任後わずか4ヶ月にして、前国王派を中心とする抵抗勢力を一掃して権力基盤を強化すべく、一気呵成に前例のない強硬策に踏み切った-。これが今回の粛清劇だと考えられます。