週末の某港です。曇り空の下、静謐な雰囲気の海でした。霧がかかっていた訳ではありませんが(霧だと航海できません)、静かな海の上でなんとなく『ミスト』という映画を思い出していました。
『ミスト』(The Mist)は、スティーヴン・キングの小説をフランク・ダラボンが2007年に映画化した、SF映画です。
舞台はある湖畔の街。その街が突如、深い霧に包まれ、得体のしれない怪物が霧の中から現れます。どうやら軍の特殊実験が失敗し、「異次元の世界」とこの世がつながってしまったため、異界の怪物が侵入してきたらしいことが分かります。
ショッピングセンターに立てこもる人々ですが、怪物は容赦なく攻撃してきます。想像を絶する異形の怪物に対して防戦するうちに、狂気に取りつかれた人々が、理性を保っている他の人々と対立します。そして、人間同士で殺しあうようになります。
主人公の画家は、息子を守るために、少人数の同志とともに車でショッピングセンターを脱出します。
しかし、街は変わり果てていました。
主人公の妻を含めて、生存者ゼロ。ガソリンが尽きたところで立ち往生した主人公は、遥か高く見上げるような巨大怪物がのし歩いているところを目撃します。
「これはお手上げだ」
絶望した主人公は、怪物の餌食になるくらいならと、息子らを次々と拳銃で撃ち抜いて命を絶ちます。 最後に自分も、と思いきや、まさかの弾切れ。自分の分の弾はありませんでした。
茫然とする主人公の前に、霧の中から何かが現れました。いよいよ最後かと思いきや、それは、救援に駆け付けた軍の特殊部隊でした。
こういうお話です。
同じフランク・ダラボンの『ショーシャンクの空に』(The Shawshank Redemption)が爽快なハッピーエンドで終わるのに対して、この『ミスト』のラストは絶望的です。
絶望のあまり、息子らの命を絶ってしまった主人公。着手があと少し遅かったら、軍の救援部隊に助けられていたでしょう。客観的には、主人公の絶望は虚妄と言うほかありません。
しかし、主人公の立場に身を置いて見れば、そのような見通しが一切ない状況で「最後の選択肢として集団自殺を選ぶ」という父親の判断がどれほどの虚妄と言えるでしょうか。「ボクを怪物の餌食にしないでね」という息子の切なる最後の願いを聞き入れた、父親としてのリアリティがあると言えなくはありません。
「絶望と虚妄」と言えば、魯迅の「絶望の虚妄なるは、希望の虚妄なるに等しい」という言葉が有名です。この言葉、東大社会科学研究所の佐藤由紀氏によれば、ハンガリーの詩人ペテーフィ(Sándor Petőfi)の「希望とはなに?娼婦さ。だれをも魅惑し、すべてを捧げさせ、おまえが多くの宝物-おまえの青春-を失ったとき、おまえを棄てるのだ」という詩を受けたものだそうです。http://project.iss.u-tokyo.ac.jp/hope/meigen/meigen_1.html
絶望が虚妄であることは、希望が虚妄であることと同じである。
希望という名の娼婦(又は男娼)に現(うつつ)を抜かしていてはいけない。
それと同様に、絶望を嘯(うそぶ)いていても仕方がない。
このような意味に解するならば、この言葉は、リアリズムに徹する視点から発せられたものとも言えます。
そうしたリアリズムの観点からこそ、絶望的に見える行動が取られる場合がある。このことを『ミスト』は示唆しているように思えます。
絶望的に見える行動が取られる場合、それが虚妄としての絶望から発せられる行為なのか、それともリアリティに依拠した行為であるのか。その峻別は難しいものでしょう。
『ミスト』では、ショッピングセンターに立てこもる大多数の人々にあらがって、たった一人で子供を探しに行った母親がいました。「自殺行為だ。止めろ」と多数は非難しました。母親としてのリアリティを理解した者は少数派だったのです。しかし、この母親は結局、親子ともども軍に救出されました。
それはたまたまでしょうか。それとも、希望を捨てなかったからでしょうか。
立ち尽くす主人公の眼を、その母親がじっと見ながら通り過ぎ、軍の救出部隊が秩序を回復していくシーンで、『ミスト』は終わります。